幼馴染と何気なく語っていた「知足」の精神とは?


過去にも取り上げた「知足」という禅語について。

昨日、地元の幼馴染の友人と数年ぶりに落ち合ってお茶をしている時にふとよぎった言葉です。

会話の一部ではあるものの「おれらも何かパッとしないというか、どこか落ち着かない感じあるね~、日々の生活の事とか仕事とかお金の心配とかetc…」なんて話題でした。

時代はこれだけ、モノも食料も十分であり物資的に恵まれている時代に間違いはないけど、何か我々世代は特に「何か足りない感」に追われている。

いわゆる無いものねだり状態で、ある種の幻想を追い求めているのかもしれない。それを満たすにはどうしたら良いのか考えて見た。

漠然とした不安を抱えても恵まれない事ばかりではない


仕事も楽じゃないし、ワタシは独身ではあるけど今後の行く末の事とか考えると「漠然とした不安」はある。

そりゃそうだ、親も年取っていくわけだし誰しもいつまでも若いわけではない。

馴染みの友人は妻子持ちで、自身で会社を回している(経営)事もあって、そういった話は同様に感じている訳であり話は尽きなかった。

特に経済的な話であるお金については、莫大な財産を築きたいとか、年収ウン千万~億円とかのお金持ちになりたいとかって話もチラホラと。

そこまではいかなくとも「お金に不安を抱えないくらい」で、そこそこやっていきたい、住宅ローンもあるしねという話になる。

ワタシは独身ではあるものの、友人はマイホームも所有し大きな住宅ローンも抱えている。

まさに頑張りどころ真っ最中なので、余計にお金に関しての不安は消し去りたい思いは強いのだろう。

もちろん、世の中の大多数の人も共通した悩みテーマではないだろうか。

あと、付け加えるならばしいて言うならそこそこの経済状況で「健康で」暮らせれば、それが良いねー!という結論に至った。

ここに知足の本質が隠されているのであった。

幸せ・幸福の本質は知足!誰しもその場ですぐ幸せに


「知足の人は地上に臥すと雖も(いえども)、なお安楽なりとす」というお釈迦様の言葉があるそうです。

横浜市の建功寺住職・枡野俊明氏の著書より引用します。

意味として「足ることを知っている人は、たとえ地べたに寝るような生活をしていても、心は安らかで幸せを感じることができる」という意味のようです。

足ることを知るとは、どんな状況に置かれてもそれを「ありがたい」と受け止めることだ、と言っても過言ではない。

なかなか、我々一般人は自分に置かれた困難を早々にありがたい、とは思えないかもしれません。

そこまで思えなかったとしても、現に衣食住とおかげさまで足りて生活は出来ているな、と思うことくらいは出来るでしょう。

つまり、足りないものへ目を向けるよりも、いま自分自身に起こっていること「足りているもの」に目を向けるだけで、知足の心意気は芽生えてくるのではないだろうか。

実際にそうとも急に思えて来ました、ちょっと考えて見ませんか?

我々の足りているものってなんだろうか、ごくごく当たり前の事からで構いません。

● 毎日、服など着る事に、食べる事に、寝る事に困らない。(最低限の衣食住は整っている)

● 仕事も劇的には儲かりはしないけど、自分(家族が)困らない位は稼げている

● オールマイティ全て身体が健康!とまでいかないけど、日常生活にはなんら支障はない

サッと考えられる事でも、上記3つは大抵に人に言えるのではないだろうか、ごく当たり前の事に見えてこれら3つは決して当たり前ではないということ。

外を出歩きたくても身体の不調でなかなか出歩けない人だっている。

仕事したいけどなかなか自分の思うような仕事に巡り合えず、とても苦労している人だってもちろんいる。

日常に起こる全ての事は決して当たり前のことではないという事に我々は気がつくべきだ。

足りないものばかりに心を奪われるだけでなく、足りているモノにも改めて関心を向けるべきなのではないだろうか。

ソレっぽく、最後にこれだけは言わせて

悩むという事は、すなわち生きているということ。