落ち込んだ時に聞く正論は痛みを倍増させる


失敗して大変な状況になってしまった時、あの時こうすればよかったんだ~と聞かされる正論は非常にツライものがある。

本来はこうするべきだ、と人に指摘されてまた考え込んでしまう正論。

分かっているんだけど、その正しい方を選べなかった自分にまた後悔してみたり。

正論は確かに正しいけど、言うべきタイミング、聞かされるべきタイミングが合っていないと単なるお説教で終わってしまうツラいものだという事に気がつかされる。

正論を言う側の言い方とさじ加減で味は変わる


正論が正しい事は分かっていても、それを選択出来ない・しなかった自分がいた。

また、それを後で人にとがめられたり指摘されたりもする。親子関係でこういう状況に陥るとかそういう話聞いたりする。

仕事している時でも苦労している時に、もっとああするべきだ、こうするべきだって叱責受けると必ずって言っていいくらいにイラっとするものな。

先日、紹介した杉田隆史さんの著書にも載っていたけど、「正論は人を動かさない、共感は人を動かす」という風に書かれています。

ツラく落ち込んでいる時に、もっとああしろ、こうするべきだったんだ、なんて正論言われても全く響かないわな。

その後が大事なことで、そういった時ほど先の言葉の通り共感を得られた方が、なぜかホッとするというか、安心する感じが湧いてくるのは不思議だ。

理解してもらえたという言動は人に安心や時に安らぎを与える。安心が少しづつ信頼に繋がり、その積み重ねがさらに時として人を動かすことに発展しているのだ。

共感が人を動かすというのは、気がついていたようで、気がつかなかった事だなと改めて実感する。

言葉にうまく出来なかったものが、言葉として表現されるとスッと自分の中に入ってくるような感覚を覚えるのは不思議だ。

言葉は時に凶器と化す!ならば優しい刃物にせよ


そんな正論をズバリと言ってしまうと、落ち込んでいる人から見ったらそれは、刀鍛冶が研ぎ澄ました真剣でぶった切られるようなものなのだ。

刃物同様に言葉は十分に扱いには気を付けるべきで、人を傷つけてしまう事を自覚しないとならない。

正論はもちろん大切な事だが、言うべきタイミングとその言い方次第だと言える。

先にあげた、共感を得てからの正論はなぜだか心に残るのは不思議である。

ワタシの過去を例とすると、「転職ばっかでどこも長続きしない。そんなんじゃ、どの会社に行っても通用しないぞ、この先勤める所すら無くなるぞ」と、指摘を受けた事がある。

それも落ち込んでいる時期に、説教じみた正論は本当に突き刺さるし、何より腹が立ってくる。

それよか「お、転職するのか?色んな会社が色々と垣間見えて良いな!その経験、今度はより活かせると良いね」なんて言われたとする。

ちょっと皮肉があっても、ユーモアを交えつつ、プラスに転換する「経験を活かす」という言葉も入る事で、なんかこの人は分かってくれてるのかな、じゃないけど心がホロっとくるものがある。

まさに共感とユーモアこそ人の心を動かすのだ。

まとめ


正論は人を動かさず、共感は人の心をも動かす。温かみのあるユーモアってのは、共感が大いに持ち合わせた要素なんだなと実感する。

そういえば、モテ男に憧れていた時に読んだ恋愛本に「女性へのアプローチの野暮な口説きは不要。共感する姿勢こそ最重要」って書いてあった事を思い出す(笑。

異性の心も動かすんだから、やっぱり共感って大事だ~強いなと思う。