今日はクリスマスであるが、年末もここまでくるといよいよ佳境を迎える感がすごい。とはいえ、今年はコロナ禍で国内はのみならず、世界中が自粛ムードで街中の雰囲気も人出はあるといえど、例年に比べればかなり大人しい(はず)。

個人的にも人生の中においてもドラマティックな年であったことには間違いはなし。そこで改めて人にとって暮らしていく上での幸せとはなんだろうか、ということを本来はクリスマスでより幸せ絶頂な世の中を背景にして考えてみたい。

人が幸福に感じられる事に主に脳内物質の性質上、3種類で分けられるという。以前にも触れたがセロトニン幸福によるもの。朝散歩を行う事でセロトニンが脳に出やすくなる、という話は何度も書いたものの、このセロトニンが出る事で人はポジティブで前向きな気分になれる。

セロトニンは主にやすらぎ・癒し・気分においての幸福を感じやすく人間でいえば、健康面に深く関わる部分での幸福感をカバーする。不安な気分・嫌な気分・イライラする時などは、著しくセロトニンが低下している。我々の日常の嫌な気分=イライラに関するものと、セロトニンの繋がりは極めて濃いと言える。

オキシトシンによる幸福は、人とのつながりにおいての幸福感を感じさせてくれる。人とのつながり、夫婦・恋人や友人やその周りの人々との関わりで得られる幸福も生きていく上で少なくない。ワタシの場合だと今では少なくなってしまったが、職場での人の繋がりが非常に高かった時期があり、その当時はオキシトシンがかなり脳内に出ていたのだろう。

その当時は、考えてみれば一番激務で今の仕事以上に家にいる時間が少なく、それでも疲れたけど楽しく過ごせていたと感じられていたのは、このオキシトシンによる繋がり幸福感によるものだったのだろう。今また同じように働けと言われたら間違いなく断るし出来ない。それでもだいぶ後になっても楽しかったと言えるのは、非常に充実した人間関係があった。社会において無視できない繋がりだ。

そしてドーパミンによるやる気の幸福感だ。ドーパミンってこの三種類の中で、一番聞き覚えのあるような物質ではないだろうか。これは目的の達成、お金・地位・名誉を得た事で感じられる幸福の部分。近年では、世界がマイナスな出来事で見舞われている為に、どうしてもドーパミン的幸福に捉われてしまうし、何よりもドーパミン幸福は分かりやすく、人が簡単に満足感を「得やすい」部分であるとされる。

これら3つの幸福感は、全体のバランスが非常に重要視される。どれか一つに偏り過ぎても本当の意味での幸福は得られないし感じられない。人は足りないものへと意識が集中しやすく、その部分ばかり気になり捉われやすくなる性質がある。

今年の自分の体験で言うならば、間違いなくセロトニンによる幸福感は間違いなく最も大切だと感じられた。2か月の入院やその後の療養生活を含めて、結局のところ健康でなければ本来の日常は取り戻すことが出来ない。今でこそ、ある程度自由に動き回れるようになったとはいえ、完璧とはまだまだ言えない。だからこそ、健康による幸福感をより痛感したのだと言える。

人との繋がりで、この入院生活をキッカケに過去の職場の親しかった人らとも久々に連絡を取ることが出来たし、少しながら再会する事も出来たし大いに助けられた。以前ほどではないにしろ、人との繋がりを確認出来たのは良い経験だったのは間違いない。

ドーパミンによる幸福を得る機会は今年は少なかったが、入院する事で治療などその他諸々にも大きくお金が掛かるも理解出来たし、使う事で各種保険や権利に関する事も学ぶ事が出来たが、今まで日常は仕事の売上などドーパミン幸福に捉われすぎてた傾向が強かったので、そこは今年は大いに反省したい。結局健康にある程度動き回れないと、ドーパミンで得たお金や名誉や地位というのは活かせないからだ。

改めて痛いほど感じさせられた、人が生きる上での幸福とは何か?問題。一度病床に伏す事で今まで忘れられがちだった、セロトニン=健康による幸福を改めて思い起こしたい。今、普通に息がすえて歩けてトイレに行けて、仕事にも買い物にも遊びに行けるのも「当たり前」ではないという事を。

PS

どれかに偏り過ぎても人は本来の意味での幸福は感じ取れないという学術的な話がメインでした。土台となる健康資本による幸福をしっかりと改めて築きあげるべし。